久々に、豊後高田市の祖父母の家を訪ねる。 |
母方の祖父母は80歳近くなった頃、豊後高田市のみかん山の土地を売った。その土地を売ってまもなく、祖母は亡くなったのだ。その後、祖父は認知症になり、平成に入った頃この世を去った。
母は七人兄弟の下から二番目で、山口県下関市で生まれた。祖母は母と同じ下関市出身である。祖父は豊後高田市で生まれ、成人すると下関市へ移った。そこで呉服屋を営み、戦前はずいぶん羽振りがよかったのだという。電話もあったし、テニスもギャンブルもしていた。ちなみに祖母は、女優の田中絹代さんと同級生であった。その後、祖父母は結婚。母の一家は戦争で焼け出されて、大分県の豊後高田市に移り住んだのである。
戦中・戦後を豊後高田市で過ごした母は、その土地に愛着をもっていないようだった。幼い時分に食事も満足に摂れず、暗い山道をひたすら行き来して学校へ通っていたのだそうだ。また、おつかいで市内の町中まで出て行き、醤油やお酒の一升瓶を抱え、深い山道を登って帰ってきたという。そりゃあ辟易して当然なのかもしれない。
こうしたこともあって、私たちが「豊後高田市に行きたい」というと、いつも母は乗り気ではない。結局却下され、私たちはずいぶん長いこと祖父母の家を尋ねていなかったのである。
しかも、祖父母の土地はすでに他人のモノ。あえて訪ねる必要はないのかもしれない。しかし私たちにとっては幼い頃、家族や親戚と過ごした想い出の地である。数十年経ってどんな姿になっているのか、とても気にかかっていた。
今回は母の意見を押し切って、久住高原から祖父母の家のあった、豊後高田市草地古城へ向かうことにした。ランチは、一番下の弟が行ってみたいと話していた、豊後高田市真玉町の『美のり』。捕れたての魚がたっぷり食べられるということで、家族4人期待して行った。お正月ということもあり、限定の特別メニューを出してくれることに。中でも刺身は絶品で、身がしまってとてもおいしかった。
その後、いよいよ祖父母の家に向かうことに。一番上の私ですら、10代半ば以降祖父母の家に尋ねることが少なくなっていた。ましてや弟たちはもっと幼かったため、道もわからず本当にたどり着けるのかという不安がよぎったのである。
ただ山に入る前までは、私たちの記憶も確かであった。「あの田んぼの中に、ヤギを放牧させていたよね」「あの小川でザリガニを取っていた」などと景色を見ながら、それぞれの想い出を語った。しかし山に入ると、とたんに“この道でよかったのかな?”という気持ちになったのである。やはり数十年経つと、その姿も変わっていたためわかりづらくなっていた。驚かされたのは平成のこの時代に、祖父母の山は舗装もされておらず、相変わらずじゃり道であること。いまだにそんな土地があるんだな…という現実に驚嘆したのである。
しばらく進むと、祖父母の家の近所らしき場所にたどり着く。しかしそこには深い谷があり、それを登るとビニールハウスがあった。すぐ下の弟は「ここだよ、間違いない」と言う。しかし母と私は、「いや、谷はなかったから、もう少し左に入っていくんじゃないか?」と話した。結局、4人は下の弟の車から降りて、その近辺を散策することに。しかしやはり、祖父母の家を突き止めることができなかったのである。
仕方がないので私たちは、ビニールハウスの脇にある農家の家を尋ねてみた。すると、そこの農家の家は母が幼い頃、いっしょに遊んでいた仲間の家であった。スイトピーを育てているらしく、その後、彼は農林水産大臣賞を受賞した。彼から教えてもらうことで、私たちは祖父母の家に何とかたどりついたのである。
玄関のあった場所、倉庫のあった場所…。確かに面影があり、4人ともここで間違いないと確信した。しかし大きな桜の木や松の木があった場所は、かつての明るさはなく、実に暗く陰気な場所になっていた。しかも私たち兄弟3人は“ここには何かあるぞ”という気持ちになっていた。私たちは同じように、土地に向かって手を合わせたのである。そして“ここは写真に撮らないほうがよい”という結論に達し、誰一人写真を撮ろうとしなかった。正月早々、兄弟3人が受けたあの奇妙な直感は、いったい何だったのだろうか。