阿久悠さんの美学。 |
所信表明したあとに? 正直、びっくりした。
こういうことは、恥ずべきことではないのだろうか。最近は何でも肯定される向きにあるから、恥ずべきことなどないのかもしれない。
最近の日本人は、なんだか弱い。誰もが処理しきれない問題を抱えているなかで、毎日をやり過ごしているように感じる。戦後のすぐの日本人に比べると、図体は確実にデカクなっているはずなのに…。昔の日本人のような豪放さが、ときにうらやましく思えてしょうがない。
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加藤雄一郎さんからメールをいただく。相変わらずカバーアルバムが売れているらしい。それも80年代後半〜90年代の作品をカバーしたもの。おそらく20代後半〜30代前半をターゲットとした商品であろう。
カバーというものが苦手だ。カバーを聴くくらいなら、静寂のほうがよっぽどいい。私は歌い手にこだわっていないと思っていたが、そういう意味ではかなりこだわっているのだろう。カバーが好きな人はおそらく、カラオケも好きなのではないかと踏んでいる。私はつきあい程度のカラオケはたしなむが、カラオケに行きたい!と思ったことはない。そもそも私の世代は生理的にカラオケがイヤだという人も多い。それに比べると20代後半〜30代前半の世代は、私たちよりはるかにカラオケに対して抵抗のない世代だと思う。そういう意味では、このターゲットでこの商品を売り込むというのは正解なのだろう。
…などと、マーケティングで音楽を考えてしまうのは、非常にイヤなことだ(笑)。それを私以上に忌み嫌った人が、阿久悠さんだと思う。
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TBSで阿久悠さんの追悼番組。誰もが知っている昭和の名曲はもちろん、西城秀樹の〈ブルー・スカイ・ブルー〉や桜田淳子〈十七の夏〉タイガース〈色つきの女でいてくれよ〉など、今ではなかなか聴けない曲もたくさん流れた。うれしい。
当時の阿久悠さんの作品の素晴らしさは、ここでさんざん書いたので割愛したいと思う。それ以上に今惹かれてやまないのは、彼の仕事に対する美学である。何かに似ていると言われることが最大の侮辱だと考え、開拓精神まっしぐら。想像もつかないほどの印税を手にしたところで、金の匂いは一切感じさせない。しかも病に伏した姿は一切見せず、歌い手が決まらない歌詞をひたすら書き続ける…。
鮮やかな人生だと思う。できることなら、彼のような美学をもちたい。