出る幕のない、透明人間。 |
貧しさのため学校へお弁当を持って来れない子どもは、本で顔を覆っていた。教室で笑っている子どもがあっても、本を見ている子どもはその方向へ顔を向けようともしない。本に集中するフリをして、自分の境遇に耐え忍んでいるのが伝わってくる。この写真を見ていて私はやりきれない気持ちになった。
その一方で、陽気で元気な子どもたちの姿も多い。池のなかに飛び込む姿や、ゴムとびで跳ねている写真も多数収められている。どれも生きているという輝きに満ちていて、眩しすぎるくらいだ。私はナチュラルに生きている人間の姿が大好きなので、こういった写真集にはとんと弱い。ブームである〈ロハス〉には自然を感じることができないけれど(笑)、『昭和の子どもたち』にはありのままの美しさを感じることができる。
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私は携帯が苦手である。そもそも電話があまり好きではない。私は口数が多いほうではないので、15秒以上話すことさえ気が重い。女性は話し好きだというが、私はそういうタイプではない。とはいえ、長時間の話もあまり聞けない(苦笑)。ひとりで延々と長話をする人には途中で「悪いんだけど、結論は何?」と言ってしまうタイプである。端折って簡潔に話すということも配慮のひとつだと思うのだが、これがなかなか通じることが少ない。
電話で話している姿を見られるのも、どちらかというと苦手である。電話というのは1対1だから、私にとっては秘め事のような感覚を持つ。だから街中で平気で電話をすることがイヤだし、ましてや連れがいたら電話などしたくない。「かけ直すから」と言って、後からかけるのが連れへのこころ遣いだと思うのだけれど、このような言い分は今の世の中じゃ通りにくいに違いない。
かつて阿久悠さんがピンクレディに〈透明人間〉という歌を書いた。当時は透明人間になることが人間の憧れのひとつではないかと思い綴ったらしいのだが、今の世の中では携帯ひとつ持つと“そこに誰もいないような気持ち”になれるようだから、本家の透明人間は出る幕さえないと書いていた。さすが阿久悠さん、うまいことを書くなあと思わず快哉を叫んだ。
マナーとは別に『着うた』『着メロ』も非常に苦手だ。私は携帯を持ってから一度も、これらを使ったことがない。単に好みの問題なのだと思うのだが、この音がたまらなく苦手なのだ。こんなことを言ったら携帯会社に叱られそうだが、音にデリカシーを感じることができない。筒美京平さんはこの携帯のサービスに対して「何のためにあるかわからない」と言ったそうだが、その気持ちとてもよくわかる(笑)。音楽は好きなのに、携帯に音楽がほしいと全く思わない。私はそもそも音楽より音が好きな人間だから、人よりも音に対して感じるところが多いのだろう。
…と携帯の悪口を書き綴ったようなかたちになってしまったが、別に悪者にする気はない。その利便性も十分に感じている。ただ携帯が普及しはじめてから、人間がロマンティストになりにくくなっているような気もする。私はエンターテイメントが好きな人間だから想像したり思いを巡らすのが好きだし、それを楽しむ豊かな感性を持った人が好きだ。それが道具ひとつで失われていくことに、とてつもない淋しさを覚える。