曾祖父の写真を見つける |
今年もよろしくお願いいたします。
今年は年末年始、珍しく実家に帰った。私が実家に帰るのは父の命日の2月が多く、シーズンをはずして帰るのが恒例となっていた。2月は閑期であることが多く、またラッシュに遭うことも少ないからだ。
しかし今年は、家族会議をすることになっており、その準備も12月初旬からしていた。しかし帰省したらまず、母屋のおばあちゃんのところに行こうと考えていたのである。母屋のおばあちゃんが寝たきりになったことを、母から聞いていたからだ。ただ母屋のおばあちゃんは、父方の祖母の兄の嫁であるため、私とも父とも血は繋がっていない。ましてや、祖母の兄は後妻として母屋のおばあちゃんを迎えている。しかし、父も私もとてもかわいがってもらった。口は悪いが、料理をしても和裁や洋裁をしても上手く、また愛情もたっぷりの女性である。うちの母も尊敬していると言っていた。私も幼い頃から母屋に遊びに行くことが多かったが、今思うと父の代からの習慣だったようだ。
ちなみに父は、親一人子一人で育った。父方の祖母は、何度か結婚をしているようだが、子どもと認めたのは父一人であった。その理由は定かではないが、父は祖母の一人っ子として育っていた。ちなみに私は祖母からも父からも、どんな風に生きてきたのか聞いたことがない。物心ついた時には祖母は病院に入院し、その生涯を病院暮らしで終えた。父は祖母のところに行くことも少なかったし、また祖父や祖母のことを尋ねるのは、子どもながらタブーに思えたのだ。だから私は祖母や父の生い立ちをまったく知らないまま、二人を亡くしてしまった。だからこそ、二人のルーツを知りたいと強く思っている。
その二人のルーツをよく知っている人の一人に、母屋のおばあちゃんがいる。母屋のおばあちゃんは、父方の祖父のことを聞くと、「お洒落で、ハンサムだった。大分の市役所に務めていたよ」と教えてくれた。ただ祖父のその後のことは、わからないとのことだった。残念ながら、祖父の写真も残っていないようだ。それで私は何とか戸籍を集めて、だいぶ明らかになってきた。戸籍によると私の父は品川区で出生し、祖父は本所区(現在の墨田区)で出生したのであった。
大分生まれの祖母が、なぜ品川区で父を生んだのか。それは定かではないが、おそらく祖母が上京したのであろう。そうでなければ、東京出身の祖父と出会い、品川区で父を生むはずがない。また終戦後に親子3人で、大分で暮らしていた時期もあるのだろう。だからこそ、大分市役所に祖父は勤め、母屋のおばあちゃんも面識があるに違いない。
そんなことを思いながら年末、父の古いアルバムをめくっていた。母屋のおばあちゃんと祖母、そして父の姿が残っている写真を発見!幸いにも母屋のおばあちゃんのいる、住宅型有料老人ホームに連れて行ってくれると言ってくれた、父のいとこも写っている。これを母屋のおばあちゃんに見せたら、きっと話のタネになると思っていた。だから私は父のアルバムからその写真を抜き、そっとポケットに忍ばせた。
案の定、母屋のおばあちゃんは、それを見せると驚いた。私が持参した銀座のお漬物にもうれしそうにしてくれたが、それ以上にその写真をまぶしそうに見つめていた。ちなみに下にあるのが、その写真である。
→右から2番目の坊主頭が父、その隣が祖母、その隣が母屋のおばあちゃん
父のいとこと母屋のおばあちゃんから、意外なことが聞けた。左端の洒落た老人は誰なんだろうと思っていたが、私の曾祖父である工藤正平であった。正平じいちゃんのことについて、私は全く知らなかったが、親戚の話や元・大分市長上田保さんの本に書いてあったため、僅かな情報だけがあった。大分の市議会議員をしていたこと。葬儀の日には、母屋からかつての私の実家までの道に、左右で花輪が並んでいたこと。お金持ちのわりに、お金にシビアであったこと(笑)などだ。いろいろと厳しい曾祖父だったが、家事が得意な母屋のおばあちゃんはとても大事にしていたようだ。長男の嫁としては、申し分なかったに違いない。
→祖母と曾祖父のことが書かれた戸籍
→『ロマンを追って 元・大分市長上田保物語』より(中川郁二・著 大分合同新聞社)
ちなみにこの家族写真は、昭和30年代前半だと思われる。当時の大分市内の田舎で、こういった洒落た格好をする老人はいなかったらしい。曾祖父もかなりお洒落には気を使っていたようだ。それにしても母屋が、こんな雰囲気だったとは。ちょっと風情があって、なかなかイイ感じだ。