私が思う、良い映画。 |
試写を観て、足早に次の映画館へ向かっていた。駅に向かっている矢先、携帯に知らない番号が入る。出ると映画のDMをくださった方。試写の前に受付の方から「名刺をください」と言われるので、差し出した。その名刺を見て、電話をかけたのだという。そして「ご挨拶をしたいので」とおっしゃるので、こちらもご招待いただいたのだからと、試写室に戻って挨拶をさせていただくことにした。
私は何事も、忌憚のない意見を言うようにしている。人には礼儀正しくありたいが、媚びる必要はないと思っている。もちろん物事の良いところを見つけたいとは思うが、気づいたことを言うのが、本来の感想ではないだろうか。回りくどいことは言わない。今日も感じたままに、5分ほど映画について話をした。
私が良い映画だな、と思える条件が一つある。それは、“観客がよく見えている”監督の作品だ。観客は暗中模索の中、映画に入っていかなくてはならない。最初のうちは、注意も散漫だろう。そんな中、観客をいかに映画に引き込むか、またストーリーをどうやって理解させるか。それを上手く導くのが監督の腕だ。
“観客はここまで話の内容を理解しているだろう”。“登場人物の言動や感情を、観客はきっと把握してくれただろう”というところで、起承転結の〈承〉や〈転〉がやってくると、観客を引き込みやすい。しかしこれが上手くできる映画監督というのは、かなり少ない。いや、これができる監督は才能があるのだろう。
DMで招待してくださった方との話の中で、ある作品の話になった。私も才能があるなと感じた監督の作品だ。作品の冒頭に、思わぬ謎解きを観客に投げかける。とても意外性のある謎解きで、そこで観客を引き込む。その謎解きが気になって仕方がなく、観客自らストーリーを追うようになるのだ。そのフックがとにかく素晴らしい。どこに伏線があるのか、登場人物の些事さえも気になりはじめる。その監督が、ほくそ笑むのを感じるほどだった。
また映画終盤になって、やれやれストーリーはこれで収束するのかと思いきや、残り数分で思わぬ展開に持ち込む。驚いた。完全に観客は監督の手のひらで、踊らされてしまうのだ。私の大好きなドン・シーゲル監督が、これを得意とする。残り数分で、全く想像しない着地点をつくり、観客は見事に踊らされてしまう。監督はしてやったり、だろう。
映画というのは、監督の手のひらに踊らされるために行くのだと私は思っている。踊らされたいのだ。しかもできるだけ上手く。観客を上手く転がすために必要なのは、脚本と演技だろう。予算の大小は、そこには全く関係ない。むしろ低予算で踊らされたら、大変な才能だといえるだろう。私がATGを好きであるのも、低予算でありながら観客を上手く引き込み、話を上手く消化させていく。また着地点も意外性に富んでいることが多い。だから風化することなく、魅力に満ちているのだろう。
観客は作品を通し、かなり冷静に監督を見ている。観客が全く見えていない監督いうのも、作品を通じて感じている。とても怖い存在だ。