さまざまな世代を通して、教育を考える。 |
自分の交友関係から教育者を考え、教育基本法を掘り下げているのだが、非常に共感した。教育者は人の子で、聖職者ではない。この世の中じゃ聖職者など、どう考えても育ちにくいだろう。彼のいうとおり人は世相によって変わるし、世相によって人も変わるのだ。
子どもは大人の姿を見て育つ。親の言動を見、3歳くらいから処世術にたけてしまう子どももいる。だから子どもの姿を見れば親の姿が浮かぶし、親の姿から子どもの姿が想像できる。だから子どもにとって親がもっとも影響の大きい人間だと思うのだが、なぜか親は教育者に責任をなすりつける。(もちろん教育者に非はないとは言わないが)。
もちろん親や教育者だけが、子どもに影響を与えているわけではない。子どもたちの祖父母や近所の人もそうだろう。いや最近は祖父母や近所の人との関わりが希薄になってきたから、テレビのほうが影響が大きいのかもしれない。いずれにしろ〈世相〉が、次世代の子どもたちを育てているわけである。
私は子どもの頃、“大人に憧れていた”と何度もここで書いた。その理由の一つに、〈大人になったらできること〉が多かったのである。うちの親はかなりしつけの厳しい親で、子どもの頃に禁じられたこと、実現できなかったこと、手に入らなかったものも多かった。だから早く大人になって掴みたいと思っていたのだ。あとになって振り返ると手に入れたときより、手に入れる前のほうが不思議と幸せに思えたり…(そういう経験あるでしょ??)。
手に入れられない時間があるというのは、歓びを与えるという意味でも、情熱を育てるという意味でも必要なことだと私は感じている。こんな些細なことだが、〈欲しい〉と願うことでさまざまな感情を育成することができるわけだ。しかも〈いかにして手に入れるか〉などといった知恵も手に入れることができる。ここですぐに欲しいものを渡してしまえば、瞬時の〈手に入れた歓び〉しか与えることはできないであろう。
また私の子どもの頃は、〈憧れの対象となる大人〉が周囲に多かった。私がよく引き合いに出す70年代に活躍していた人たちは、今や団塊の世代になっている。彼らのいいところは、学生紛争を経験してきているところだ。これは学生紛争がいい、ということを言いたいのではない。20歳前後で、自らの情熱を完全に滾らすことができたという意味でいい、といいたいのだ。彼らは情熱的であるがゆえ、すぐれた表現者が多い。表現者たる者、情熱的でなければ、人のこころなんて動かせるはずがない。あの井上陽水も団塊の世代だが、彼も自分たちの世代を“物事に熱中したことのある気のいい世代”と呼んでいる。さすが井上陽水、実に的確な表現だ。
何でもいい。10代や20代のときは何かに情熱を傾けることが絶対に必要なのだ。10代や20代は、肉体も精神もあり余るほどのエネルギーをもっている。そのエネルギーのいき場所をなくし、諦念する10代20代のほうがはるかに気持ち悪い。まさに今の10代20代がそうだろう。妙に器用で、諦めが先に立つ。10代20代は、熱いくらいがちょうどいいのだ。
20代といえば、先日20代前半のhirakuくんのblogを読んでびっくりした。私が知っている彼は、実に柔らかい物腰なのだが、こういう情熱的な一面をもっていることなど、全く気がつかないでいた。彼のblogを読んで、思わず彼を見直した。彼の友人であるyu-jiもそうだが、常にいろいろな側面から物事を考え、格闘している。今後の日本を担う、彼らのような熱い20代に期待したい。