まずは自分を深く見つめること。 |
私の好きだった70年代は、今思うととてものどかな時代だった。扇風機と麦茶があれば、九州の大分でもじゅうぶん涼しかった。その一方で冬は霜柱ができるほど、寒かったように思う。あれが四季だったのかと、今になって思い返す。
犯罪についても当時はもちろんあったけれど、理由が不可解な事件はほとんどなかったように感じる。ただ、ケンカが多かったように思う。カラダを使ってのとっくみあいで、終わっていたような気がする。人間が〈ことば〉と〈カラダ〉でコミュニケーションを、とっていた時代だったのだと思う。青春ドラマにも、ケンカのシーンはつきものだったしなあ(笑)。だから今のように、自分の身にイヤなことが降りかかったことを親に話し、納得のいく回答が得られなかったからといって、その腹いせに他人に危害を与えるというようなことは当然なかった。だいたい自分の身に降りかかったイヤなことは、いったいどこへ行くのか。まずそこを解決するのが先決で、親のことばは自分の道を開くための意見のひとつにすぎないことになぜ気がつかないのか。またそこが徐々にすり替わっていき、親のことばがエネルギーの発火点になるのが不思議でならない。しかもそれを親に向けるのではなく、なぜ見知らぬ人へ行ってしまうのか。
おそらく彼らは自分を見ているようで、見ていないのだろう。親を含めて自分以外の人ばかり見ているように思う。自分のことを見ていても、劣等感でいっぱいでしっかりと見てはいない。しっかりと見ていたら、劣等感に苛まれることはないように思う。苛まれるほど劣った人間は、今の日本にはいないはずなのに。
今は〈空気を読め〉と誰もが言う時代だが、私はまず空気を読むことより〈自分を見ること〉が大切なんではないかと思う。どんな小さなことでもいい。たとえば小学校のときにぬりえが得意だったとか、腕ずもうが強かっただとか、そんなことが自分らしさであったり、支えになったり、道を拓いていくきっかけになるものだが、大人に近づいてくるとなぜかそういうことを忘れてしまう。世の中の風潮に踊らされすぎて、いつしか自分の良ささえも見失ってしまうのだ。自分の良さを最大限に活かせられるきっかけさえあれば、誰でも自信をもって生きていけるし、おのずと空気も読めるようになる。だからもっともっと自分を見てほしいと思う。
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you tubeで阿久悠さんに関する動画を見つけた。70年代において競い合っていた二人が、共作することになった話だ。このVTRの阿久さんの詞に、思わずぐっときてしまう。人間と人間はやがて重くなってしまうから…か。この簡素なことばが、人と人とのつながりを見事に言い当てている。